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「石橋」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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石橋郷(中世) 戦国期に見える郷名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石橋村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石橋町【いしばしちょう】 (近世~近代)江戸期~昭和56年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
石橋町(近世~近代) 江戸期~昭和56年の町名明治初年から神戸【かんべ】を冠称江戸期は神戸城下の1町町人地城の北に位置し,東は新町,西は竪町に接する十日市町・小山町・新町とともに本町4町の1町で,戦国末期の織田信孝時代に成立したといわれる町名の由来は,地内に石橋があることによる天沢【てんたく】山竜光【りようこう】寺の門前町このため古くは寺家ともいわれた家数は,享保17年41(九皐抄),文政年間頃40(高野家家譜),明治初年49臨済宗天沢山竜光寺は,応永30年の開基で,将軍家より朱印状の発給をうけ,寺領21石余の寄進をうける臨済宗東福寺派の中本山で,伊勢国では格式が最も高かったまた2月15日には「神戸の寝釈迦」といわれる法会が行われ参詣客でにぎわった初代神戸藩主の一柳直盛の髪塚がある(新編鈴鹿市の歴史)ほかに真宗高田派梅光山常善寺があり,寛永6年の中興古くは天台宗であったが寛永年間に善通上人が真宗に転じ,元禄5年寺号を公許された(神戸平原地方郷土史)神社は神館・飯野・高市の各神社があり,3社で神戸総社という神館神社は式内社でないが,天照大神神幸の際の宮所を神館として祀る飯野神社はもと西条村にあり,神戸氏の神戸築城とともに現在地に移ったという(検録)高市神社はもと十日市町東裏にあったとも,三日市から移ったとも,また大和高市郡から勧請したともいわれ,諸説がある(鈴鹿市史)安政年間の大地震では竜光寺・常善寺の本堂が倒壊し,町家も被害を受けた明治22年神戸町,昭和17年からは鈴鹿市に所属竜光寺で毎年3月15~17日に行われる釈迦涅槃図を釈迦堂に掲げ開帳する会式は「神戸のおしゃかさん」といわれ,鈴鹿市に春を告げる年中行事として,遠近からの参詣客でにぎわい,植木市をはじめ多くの露店が軒を並べ,神戸の町が最もにぎわう昭和51年の世帯数54・人口215同56年神戸2丁目の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石橋【いしばし】 外国ではすでに紀元前からあった石橋が、日本に入ってきたのはそれから二千年以上も経ってからのことである... |
出典:日本実業出版社「道と路がわかる事典」
石橋村(近世) 江戸期~明治7年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石橋町【いしばしちょう】 (近世~近代)江戸期~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
石橋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名三条通寺町東入の町寛永14年洛中絵図に「石はし丁」と見えて以後,洛中絵図類ではほぼ町名に変化がないが,「京雀」「宝暦町鑑」や寛文12年洛中洛外大図では「柳之下町」と記されているこれは,往昔,このあたりが柳原であったことにより,柳之下町とも俗称されたもので(宝暦町鑑),両町名が併用されていたと考えられる現町名の由来は当町に京極川に架けられた橋があったことによるともいわれる(坊目誌)江戸中期には田中伊賀の呼称を持つ鏡屋,その他,そめ手ぬぐいや・ふろしき屋・かたな屋・針屋などが店を構え,繁華をきわめていた(京独案内手引集・京雀跡追)その中でも針屋と記されているのは,京紅などとともに京土産の代表ともなった「みすやばり」のことであろう安政2年には火災で焼失した町儀帳の新調や町式目が定められ,会所銀や名替の際の出銀規定などがこまかく定められているまた,明治初期の居住者の職業としては,扇商・油・銭両替商・針屋・書林・陶器商・茶商・料理屋・八ツ橋を売る餅屋などが知られる(石橋町文書)江戸期は南艮組の三条東五町組に属し,28軒の軒役を負担明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】6番組,同5年第6区と改称,同25年第6学区に編成明治12年下京区石橋町,同22年京都市下京区石橋町,昭和4年中京【なかぎよう】区石橋町となり現在に至る明治20年の世帯数約55(石橋町文書)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石橋荘【いしばしのしょう】 (中世)南北朝期から見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
石橋村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石橋荘(中世) 南北朝期から見える荘園名平群【へぐり】郡のうち近世の五百井【いおい】村の古称五百井村の集落部,現在の斑鳩【いかるが】町五百井1丁目に字石橋が遺存する集落の南西に位置する飛地(現斑鳩町五百井)は西荘とも称し,戦国期の史料には「五百井西之庄」「五百井領西之庄」と記される(大方保家文書永禄9年閏8月2日付八条相模守長持等書状・天正12年西之庄井手水覚書/斑鳩町史続史料編)一乗院門跡領「嘉元記」延文2年3月15日条に「石橋庄内於作田,悉興富下司方点定」とあり,荘内に所在した神南荘両下司・百姓の作田を一乗院門跡領興富【おきどめ】荘下司が没収している長禄2年の西荘田数之日記(大方保家文書/斑鳩町史)によれば「一,いしはしの庄百姓の事,大百姓十八人にさたまり候」とされ,後世の公事家に相当して村の成員である大百姓の定数は18人に固定され,荘内に持家と田地5段の所持が必須資格とされたまた灌漑用水は竜田川の下の井手から引水されたが,古来竜田などとの水論も絶えなかったという(大方保家文書天正12年西之庄井手水覚書/斑鳩町史続史料編)なお応永8年3月の木札に「石橋庄 石橋正信」と,当荘を本拠とする地侍が見えるが(斑鳩町史),戦国期にはこれに替わって大方氏が衆徒筒井氏の麾下で活躍した... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」